昔のメモファイル見てたら発掘。まじめなことをしていた時期もあったんですね
カッコがきは主に私のしょーもないコメントです
捨児たちのルネッサンス 15世紀イタリアの捨児養育院と都市・農村 高橋友子 著
はじめに
市民の定義
- 上層市民・・・農村や農地を所有し商業や金融業を営みつつ市政を支配していた都市の上層階層
- 中層・・・都市の手工業者と小店主
- 都市民・・・↑よりも下に位置し、貧しいがゆえに税の支払いを免除されていた下層民
この本のテーマ
フィレンツェのインノチェンティ捨児養育院を主要な史料として用いる このファイル内で単に養育院と言ってるときはだいたいインノチェンティ養育院のことだ
- 養育院が開設されるにいたった状況とその背景、施設が果たしていた機能、そこにいたこどもたちの具体像
- 15世紀のフィレンツェおよびこの都市が支配していた農村の姿とそこにあった諸問題を養育院の記録からひもとく。
- 養育院と都市社会の関係を検討し、イタリア、ヨーロッパ社会の変容の中で考察する。
第一章
11世紀~ 巡礼者や貧者のための慈善施設 ついでに捨児や病者を保護したりしてた 15世紀後半 イタリア北部と中部で起こっていた慈善施設の再編成と収容者特定化の流れを受けて、捨児の収容は「オスペダーレ・マッジョーレ」という施療院に統一されている。
黒死病以降、フィレンツェではギルドが都市政府と連携して施設の直接的な庇護と管理を行うようになった。 ギルドはもともとキリスト教的な友愛団体として成立した組織
慈善(caritas)
神への愛=信仰 隣人愛=慈善 行為としての慈善、喜捨や援助は神と人とを結ぶ絆となる。
→そうすっとカリフみたいなのキリスト教世界にもちゃんとあったんだなとなるな 規模の差はわからん
共通善(bonum commune)
3世紀にスコラ学が生み出した政治学上の概念で、個人ではなく全員に、個よりも全体によって良き事柄を指す。 国家の最終目的は「共通善」の守護と増進にあると解釈された。 ダンテの師でもあったブルネット・ラティーニも、フィレンツェ亡命中に「共通善」の必要性を説いてる
フィレンツェのコルッチョ・サルターティやレオナルド・ブルーニなどの市民的人文主義に「共通善」は引き継がれる。 市民的人文主義は「瞑想的生活」より「行動的生活」を重んじる。
慈善の行為を通して都市自体が神と結ばれると考えられていた。
兄弟会の出現
教会では聖職者と俗人の役割が厳密に区別されていた。 俗人にできるのは日々の祈りとミサ参加、喜捨や寄進のみ →さらに信仰生活を深めたいなあ~、金融やってるけど天国行きたいなあ~という都市の市民層の間で発展、兄弟会が自然発生的に誕生
ミサでの聖歌の詠唱、定期的な会合や会食、共同での埋葬や死者の追悼などをおこなうことによって、メンバーどうしが信仰を深めるとともに、社会的なネットワークを形成する場として発展していった。
インノチェンティ養育院の創設
1445年に創立 絹織物商ギルドが作った ブルネレスキが建物を建てたぞ
ジッタテッリ(gittatelli)=捨てられた者という意味で、「捨児」そのものをあらわしている。
「小童」(putti)四肢を帯で巻かれたこども 生まれたばかりのこどものからだは柔らかなので、帯で固定しないと身体がまっすぐに生育しないと当時の人々の間で信じられていた。
玄関に設置された聖水盤(pula)に捨児が置かれることになる。(あれだ、赤ちゃんポストだ・・・!) 養育院の院長は絹織物商ギルドのコンソリによって選出された が、教会もまったく干渉しないというわけではなく養育院そのものが「教区教会」として聖別された。
←慈善施設に寄進すれば税が免除されたので、教会によって疑念をもたれていたため、養育院の財産を守るため、施設そのものを教会組織に編入した
養育院に関する史料
養育院はフィレンツェ近郊の農村地帯に広大な所有地を持っており、この施設に雇われた「小作人」は収穫を養育院に納めていた。
「モンナ」 既婚の女性か寡婦、少女期を過ぎた未婚の女性の名前の前につけられたこの時代の敬称(いやな敬称)
運営体制
絹織物商ギルドは絹織物の値段の1割を養育院の運営資金の一部とした
特権として政府のあらゆる税の免除と、裁判の形式を踏まずに債務者に対して債権を取り立てる権利を与えられた。
←フィレンツェで最大の施療院となっていたサンタ・マリア・ヌオーヴァがすでに持っていたもの。これと同格の慈善施設になったといえる。
養育院の子供は年々増加したので財政難に陥っている
フィレンツェのコンタードとディストレット(フィレンツェへの従属都市とその領域)を修道士が托鉢してまわって喜捨を募ったりした
一度養育院に子どもを入れ、のちに引き取りに来た親には養育費が請求されたが、親が貧しい場合は免除されたのであんまり収入として期待されるものではなかった。
施設のこどもたちは「我々のこどもたち」(nostri fanculli)と帳簿内で呼ばれる。 養育院は疑似家族の形態を取る修道院に似た共同体を形成していた
女児の人数が多かったインノチェンティでは、「女院長」(priosa)が女子の共同体を統括していた。(「聖水盤」の監視係やっぱいるんだな よかったよ)
女奴隷(schiva)が養育院内でしばしば乳母や下女として用いられる。
「男たちの中庭」と「女たちの中庭」(中庭がめっちゃ中庭だなあ)
こどもへの慈善
こどもへの関心の著しい高揚 →フィリップ・アリエスのテーゼを覆す(鼻つまみ的存在ではなく割とポジティブな感じで都市と関わってたっぽいなー)
アルベルティの『家族論』
「家」=家長を中心とし、妻子、親族、使用人を含む広い概念 この時代のイタリアでは、嫡出子でなくとも父親に実子として認知されれば、同じ「家」の成員であるとみなされた。(そうなん?)(まあ認知されればそうよ)
父と息子のつながりは重視されるが娘はそもそも視野に入れられてないぞ
当時のフィレンツェの若者や独身男性にとってソドミーは日常的な現象であり、若者の結婚への意欲を妨げるものとみなされていた。 1432年にはソドミー(!?)を取り締まる夜の役人(Ufficali di Notte)が創設されている。
第二章
養育院や捨児に関する諸研究
アリエスの、前近代は「小さな大人」として扱われていたというテーゼ →すでに覆されているが歴史界に刺激と発展をもたらした
ジョン・ボスウェルの嬰児遺棄に関する研究
古代ローマから中世末期にかけての西ヨーロッパにおいて、 嬰児遺棄は家族の生活を規制する役割を果たしていた。 とめどない人口の増加に歯止めをかけるものであった。(まあ間引きか、はい)
公の場所に捨てられた捨児は「見知らぬ人々の親切」によって 拾われ養育される場合があった。教会ができてからもそんな感じ
ところが中世末期に捨児施設ができるようになると、そこに子供を入れることが 最も簡単な嬰児遺棄になった。 施設の中では捨児たちは病気と不十分な設備のために死んでいく。 「見知らぬ人々の親切」が捨児を救うことはなくなり、捨児たちに社会からの隔離と死を もたらしたにすぎない。
嬰児遺棄の方法
古代ローマ・ギリシア世界では望ましくなかったが法的には禁止されていなかった。 障害児や虚弱児を社会から除くのはむしろ理性的な行為で、生まれたこどもを家族として受け容れるかどうかは家長の意志に委ねられていた。
ヨーロッパがキリスト教化されると嬰児遺棄は殺人扱いになった 嬰児遺棄と堕胎は基本同一視 区別されてなかった
古代ローマ世界ではcolonna lactaria(乳の柱)という広場の柱のもとに置かれた。 キリスト教が普及してからは教会に置かれるようになった。
14,15世紀フィレンツェでは市内の路上、市門付近、河、道のわきにある溝など
聖水盤 ルオータ(フランス語ではトゥール):職員に顔を見せずに捨児をおける回転箱 プレセピオ:柵の中にクッション 柵より大きいこどもは受け容れられない
塩の小袋をつけることで洗礼の有無を示したりしてた
インノチェンティ養育院の入所者
100名弱から15世紀後半にかけて200名以上まで徐々に増加 パッツィ家の陰謀があった次の年1479年には359名と極端に多い数字になっている。
持参金が用意できない家庭は女児を遺棄する傾向に
わかっている捨児の出自はだいたいフィレンツェ近郊だが、 時間経過とともに少しずつ拡大している
都市の人口動態と家族の状況
フィレンツェにおける支配層は核家族 下層階層ではこどもは少ない 奉公者は独身も多い しかし経済状況は不安定だったので捨児が生まれる原因はあった
嫡出子
嫡出子(legittimo/legittima) 庶子(bastardo/bastarda)
(母親が乳母として雇われたので捨児に出されるってつらすぎる)
両親のどちらかが死亡すると経済的に一家離散の危機になるので嫡出子でも捨児に出されるぽい
ドメニコ・トラディート(トラディートは「裏切られた」の意)(かっこよすぎるけどいわばふつうの子にその名前でいいのかよ)
婚外子
入所者の3分の1が女奴隷の子供 ひ~ いるんだな、普通に奴隷が… 14世紀末のフィレンツェにおける女奴隷の8割がタタール人
出産後の母乳の出る女は乳母としての価値があったので主人的にはそう不利益でもなかったんだぜ
「amore」当時のイタリアでは社会規範から逸脱した、激しい、しかし長続きしない性的感情を表すネガティブな意味合い
(あーデカメロンねはいはい)
15世紀のフィレンツェでは「公共の娼家街」は大司教座聖堂のすぐそばにあり、市の中心地に位置していた。
その他
双子は養育する金が足りないから片方が養育院行きになってしまう フィレンツェにあったスティンケと呼ばれる牢獄にいる女から生まれたこども
第三章
乳母
多産の追求のため、生まれた子供はさっさと乳母に任せて母親は新たな出産に臨む 授乳中は妊娠しにくいと信じられていた さらに新たに妊娠しても母乳が出続ける場合もあるが、 胎児に栄養がいってるため、質の悪い「汚れた乳」として敬遠された(子供にあげようとあげまいと乳は出るだろ!?)(いや…でも…乳母も子供を産んだから母乳が出るわけでしょ…???)
乳母の給料は魅力的だが、妊娠してたらアウト、さらに堕胎もできない
牛の乳や山羊の乳を赤子にあげるのはアウトという都市部の迷信 なお農村部ではそういうのはなかったぞ(まあ現代でいう保育園的な役割を個人で受け持ってたってわけか)(保育士の資格持ってる人と個人で契約して専属で子供の面倒みてもらうって相当贅沢だよね)
出産した下層の女性(下女や奴隷を含む)を乳母として養育院が雇い、生まれたこどもは里子先を養育院が世話するシステム
離乳後のこどもを養育する「乾いた乳母」
第四章
農村社会
・分益小作制 →デカい土地を持つ地主が小作人と数年程度の契約を結び、収益を地主と小作人で折半する 形態
第五章
14-15世紀イタリアのこどもたち
banbino/banbinaは<banbo 愚かな>の縮小辞なので否定的なニュアンスを持っていた。 一般的にはfanciullo/fanciullaだった 6-12歳の少年少女を意味する なおこれは「歩兵」「召使」「下女」を意味する<fanre>の縮小辞
男子と比較して女児は青年期を持たなかった
こどもの命名
姓を持つのは上層市民で、中層より下で姓を持っていたものはほとんどいない 他の人物との混同を避けるために、男性なら自分の名前の後に「di(の)」で父と祖父の名前を連ねたり、自分の出身地の地名を付けて呼んだりしていた。(やはりな…) 未婚女性なら父の名前、既婚女性なら夫の名前を自分の名前の後に付けるのが一般的
捨児にも姓はなく、名前だけがつけられていた →聖書由来または聖人から取るありふれた名前が付けられていた ジョヴァンニ・アントニオといった二連の名前もよく付けられていた ジョヴァングァルベルト・ジローラモのように三連→二連にした名前もある(ミケランジェロみたいに圧縮したんだなあ)
アントニア、ジョヴァンナのように男性聖人に由来する名前を女児に付けることはめずらしくないが、 聖女ルチアに由来するルチアーノ、マリアに由来するマリアーノやマリオットが男児に付けられるケースはまれ(そもそも女性聖人が男性聖人より少なそう)(ルチアーノやマリアーノいいな)
ディエティサルヴィ(神が汝を救われんことを)やディオプロヴェーガ(神慮を賜らんことを)のように祈りの言葉が男児の名前となっている例がある(かっこよすぎる)
女児にはフィオーレ、ステラ、スペランツァなどがよくある
養育園にちなんで「インノチェンテ」が二連の名前に含まれる名前もよくあった。 近代になると養育院のこどもたち全体が「インノチェンティーニ」とよばれ、これが彼らの姓になっていく。のちに捨児そのものが「インノチェンテ」と呼ばれるようになる。
「捨てられた(Abbandonato/a)」など露骨なニュアンスが込められた名前も ヴェントゥーラ・ディサヴェントゥーラ(運・不運) 養育院記録の最後のページに記されているせいかウルティマ(最後の女児)と名付けられた(かっこよすぎる)(でもウルティマはジョークかまだ決まってなかったかなんかだろ?!)
女児の結婚
インノチェンティ養育院のこどもたちは「家族」だったので、院内で育てられた男児と女児が結婚するのは近親婚なのでありえなかったぞ(結婚したところでお金もないし養育院が出資を強いられてヤバいというのもありそう)
養育院出身の女児と結婚した夫は養育院から「我々の夫」と呼ばれ、結婚後も妻の後見人として面倒をみていた
むすび
出資が絹織物商ギルドなんだしそこに就職させたらよかったんちゃうか?(見逃してるだけであったかもしれん)ブラックそうだけど
養育院はこどもの譲渡に際して、男児には読み書きや生業の習得、女児には嫁資をつくる手仕事を覚えさせる 当時のジェンダー観というか将来観というか
ミラノでは修道会がこういう慈善施設とか作ってたぞ むしろフィレンツェの、ギルドが運営してたパターンが例外感あるぞ
宗教改革後は労働とか規律とかをこどもに教え込むのが重視されたぞ
16世紀以降のインノチェンティ捨児養育院
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メディチが君主制フィレンツェやってた時代 養育院に譲渡や結婚できなかった女児がめちゃくちゃ余ってしまった(なぜ嫁資が二倍になると結婚が容易になるんだ・・・?) 女児は基本的に婚外子とみなされてたので社会的地位も底辺だったんだ(ルソーがよ・・・)
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ロレーナ家がトスカーナ大公やってた時代 ギルドが廃止され、大公自身が養育権の庇護権を持った 農村にこどもを送って労働力にする試み
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イタリア王国建国から今世紀まで
母親の匿名性を守る「ルオータ」の廃止(母親が自ら責任を持って子供を育てるべきというイデオロギーに変化したんだなあ)
現在養育院があった建物は博物館とかユニセフの事務所や幼稚園があるぞ